我が国の未来を見通す

メルマガ軍事情報の連載「我が国の未来を見通す」の記事アーカイブです。著者は、元陸将・元東北方面総監の宗像久男さん。我が国の現状や未来について、 これから先、数十年数百年にわたって我が国に立ちふさがるであろう3つの大きな課題を今から認識し、 考え、後輩たちに残す負債を少しでも小さくするよう考えてゆきます。

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我が国の未来を見通す(83)『強靭な国家』を造る(20)「強靭な国家」を目指して何をすべきか(その10)

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我が国の未来を見通す(83)『強靭な国家』を造る(20)「強靭な国家」を目指して何をすべきか(その10)

□はじめに

 今回は、「国力」の要素として「政治力」を取り上げようと思います。私は、依頼された様々な仕事をこなしながら、原稿をしたため、時に講話資料などを作成したりしている自分専用の部屋を持っています。書斎というほど立派なものでありませんが、そこには、部屋を囲む壁一面に固定された本棚から溢れた書籍や資料の数々が“所狭し”と平積みされています。

このたび、改めて気がついたことがあります。これら数千冊の書籍の中で、「政治」と冠する書籍がほとんどないのです。振り返れば、著名な有識者の書や内外の政治家の伝記などを通じて政治や外交を学ぶとともに、様々な経験を通じて、「政治」については人並み以上に色々考えてきたと自負していますが、これまでの人生で、「政治」について特別に学んでみようと思ったことは一度もなかったのでした。

「政治家はもっと安全保障や防衛について知見を持つべし」などといつも偉そうに書いたり、話したりはしています。しかし、大部分の国民もそうであろうとは思いますが、国民の1人としてこちら側から、「政治」とか「政治家」について理解を深め、歩み寄ろうとする努力をしないままだったのです。これは反省すべき点と考えていますが、“時すでに遅し”です。

このように、「政治」についてはまさに“浅学菲才”の身で恥ずかしい限りなのですが、逆な言い方をすれば、“開き直り”というか、あらゆる既存の先入観とか主義主張のようなものとは“かけ離れた”第三者的な立場で、「政治力」について論じてみようと思います。

さて、前回取り上げた話題を少し補足しておきます。福島原発の処理水に関して中国から殺到している迷惑電話に対する新たな対応策として、東京都は「あなたはご存じですか、中国の原発の中には、福島原発の処理水のおよそ10倍のトリチウムを出すものがあります」との自動音声で対応しているとのことです。これはあっぱれです。

しかし、政府や外務省、それに有識者やマスコミもなぜこのような「事実」を声高に発信しないのか、本当に不思議です。岸田首相も李強首相に面と向かってその「事実」を言えばよいのです。トリチウムが本当に有害なら、だいぶ前から汚染されて迷惑を受けているのは日本を含む周辺国なのです。

与野党議員やマスコミの中にも、いわゆる“親中派”といわれる人たちがたくさんいるようですが、中国の“いいなり”になっているのが親中派のあるべき姿ではないはずです。今の日本は「外交力」ですでに負けている証拠なのでしょう。困ったものです。

▼「政治力」が「国力」に及ぼす影響
 
筆を進めましょう。古今東西の歴史をみるに、「政治力」を発揮する国のリーダー(為政者)の良否が、「国力」の発揮を左右し、その結果が、良くも悪くも「歴史」として刻まれた例は枚挙にいとまがないと考えます。

国民主権である民主主義国家においては、国民の精神と選挙によって選ばれる政治家は不離一体です。一方、京都大学名誉教授の中西輝政氏は自書『強い日本をめざす道』の中で、「『政治は集票マシンで票を集め、選挙で勝って権力を維持すればよい』というような考えは『破滅の思想』である」旨を主張し、自民党が民主党と政権交代し、下野した頃の自民党を厳しく批判していたことを思い出します。

中西氏は、「政治家は自ら国際認識、歴史観、価値観を保持するばかりでなく、国民の健全な価値観を育て上げなければならず、戦後、それを怠ってきた」と痛烈に批判したのでした。

確かに、最近の欧米列国において為政者を選ぶ際の混乱などをみるにつけても、民主主義国家において政治家を目指すには、国民の支持を得る必要があり、国民に健全な価値観が育っていないと、それ相応の政治家が選出され、その結果、国家が“あらぬ方向”に向かってしまう可能性があります。

歴史をみれば、自分本位の身勝手な意図を持つ者たちが大衆を先導し、ポピュリスムに陥った例は数え切れません。民主主義とポピュリスムの先にある衆愚政治(暴民政治)はまさに“紙一重”なのでしょう。このような特性に加え、「意思決定に手間と時間がかかる」とか「政策の継続性が失われる」など民主主義国家には、大きな“弱点”(“落とし穴”というべきか)があるのも事実なのです。

2021年7月、中国共産党100年式典において、習近平総書記は、中国共産党の歴史の中で数千万人の犠牲者を出したといわれる大躍進や文化大革命などの“人命軽視”には全く触れず、上記のような民主主義の“弱点”を突いて、「社会主義以外の政治は失敗した」と共産主義の正当性を主張したのは記憶に新しいところです。

さて、本メルマガでは他の識者に倣って、「国力」を構成する「ハード・パワー」の一つとして「政治力」を位置付けていますが、のちに触れる「ソフト・パワー」としての「国家戦略」や「国家意思」は、まさに指導者が「政治力」を発揮し、国家や国民の価値観を集約したものであることなどを考えれば、「政治力」は、「国力」の「ハード・パワー」の1要素というよりも、「ソフト・パワー」に分類された方が適切なのかも知れません。

しかし実際には、対外的な「政治力」(「外交力」)は、「経済力」や「軍事力」などとともに国家の諸力を総合した「強さ」として、“国際社会にどの程度影響を与えるか”の尺度になるものでもあります。

「政治力」単独の国際比較は見当たりませんが、これら国家諸力の比較という点では、すでに紹介しましたように、米誌「USニューズ&ワールドレポート」が「世界で『強い』国のランキング」を発表しており、1位アメリカ、2位ロシア、3位中国、4位ドイツ、5位イギリス、6位フランスに続き、日本は7位にランクされています。

アメリカ発のレポートということもあって、少し“買いかぶっている”という印象を持たざるを得ませんが、日本に対する総評は、「世界で最も洗練され、技術発展の進んだ国の1つ」とありますので、「政治力」(外交力)よりも「経済力」とか「技術力」が評価されたものと考える必要があるでしょう。

話題は変わりますが、選挙によって選ばれる政治家に対して「自分たちの代表である」と考えているのか否かについて興味深い調査結果があります。特定非営利活動法人「言論NPO」が2019年に実施した「日本の政治・民主主義に関する世論調査」です。それによると、「政治家を自分たちの代表だと思わない」との見方が45%となって、「代表だと思う」(42%)を上回っていました。特に、若い世代ほど「代表と思わない」との傾向にあるようです。   

さらに、「政党や政治家に日本が直面する課題の解決を期待できない」と考えている人は71%を超えるなど、政治に対する国民の信頼が低下していることが明らかになっています。これまでの歴史に加え、毎度の国家の議論などから、そう思いたくなる気持ちも理解できるような気がします。

実はもっとショッキングなデータもあります。「ベネッセ教育総合研究所」が中学生や高校生に対して行なった、若者の“政治離れ”の象徴といえるような調査結果です。調査自体はかなり前ですが、「私個人の力では政府の決定に影響を与えられない」という問いに対して、「全くそう思う」40%、「まあそう思う」41%を加えると81%を超える若者が肯定しているのです。

同じ問いの調査に対して、アメリカは43%、韓国は55%。中国であっても44%となっており、我が国の若者たちは、自分自身の力と政府の決定の間に、選挙によって政治家を選出するシステムのない中国を上回る「距離感」を感じているのです。

これは由々しき問題であると思いますが、このような「政治に対する国民意識」には、戦後の若者教育が強く影響を与えていると考えます。中西氏の指摘のように、国民の健全な価値観を育てる「教育」の改善を放置してきたことを含め、「政治」の分野においても、戦後70数年の“ツケ”が溜まりに溜まっていると考えざるを得ないのです。

▼「政治力」が「国力」に及ぼす影響(続き)

もう少し続けましょう。同じく京都大学名誉教授の佐伯啓思氏は、自書『反・民主主義論』において、戦後の我が国の民主主義の論理矛盾について「日本を滅ぼす『異形の民主主義』である」として鋭く詰め寄っています。なかでも「デモクラッシーは基本的には大衆という多数派の支配の政治なのだが、それがうまくゆくためには、少数の賢者がこの多数派を指導していかねばならない」と述べています。

つまり、「指導者は、社会の日々の変動や情緒が渦巻くこの時間と空間を相対化し、過去や未来という長い時間のうちに現在を置き、世界という視野に立ち、ある程度、状況から身を引き離して眺める時間と能力をもって、その立場から国民が本当は何を求めているかを解釈する位置にいなければならない。そして、新聞調査などによって即興のイエスかノーかを集計した『世論』ではなく、目には見えない、統計数字には出てこない経験や思慮を通じた『輿論』の中にある『民意』を理解し、多数派の精神的な指導者として『世論』を『輿論』に変えていく役割を果たすことによって、はじめて『主権は人民(国民)にあり』が成立する」旨のことを、吉野作造氏の主張を引用しつつ展開しています。

これらの言葉の一つ一つに全く納得するものがあります。国の指導者たる政治家は、国民から選ばれながらも、一般の国民などがはるかに及ばない知恵やリーダーシップを保持し、官僚や各界の専門家を凌駕する“ジェネラリスト”として、“国家として何をすれば良いのか”の視点に立って「国家の舵取り」を果敢に実施する気概と知恵と実行力が求められているのです。

そのためには、中西氏や佐伯氏が指摘するように、政治家は、主義主張に多少の違いはあっても、その根底に国家観や歴史観や愛国心を保持し、過去、現在、未来という歴史の繋がりの中で、世界的な視野に立ち、客観的な立場で物事を判断できる「資質」を保持する必要があると考えるべきでしょう。

実際には、選挙によって当選さえすれば、政治家としての「資質」を何ら問われることなく、“だれでも”政治家になれます。だからこそ、一度も登院することなく外国に所在し続けたような人物でも国会議員になれたわけだし、収賄事件などに関与する政治家も後を絶たないのです。

「落選すればただの人」とよく言われますが、私は、逆に「当選さえすれば誰でも政治家になれる」ような“現状”をこのまま放置してよいのかという疑問を消え去ることができません。

個々の政治家が、政治家の必要条件としての「資質」を保持しておれば、アプローチが異なる政党が複数存在し、相互に活発な議論を交わしても、国民の政治に対する信頼は揺るがないし、我が国の「政治力」は、世界に伍して評価されるレベルに届くと確信します。

特に、対外的な意味で言えば、細部の紹介は省略しますが、戦後政治の中で、安倍元首相のように、日本の「外交力」を世界に知らしめた政治家が輩出されていますので、要はやはり「資質」なのだろうと思います。

この「外交力」の行使にあたって最も優先すべきは「真の国益」であることは論を俟ちません。現下の情勢において、我が国の「国益」上最優先すべきは、日米同盟などと連携を図りながら「台湾有事」を何としても回避することでしょうから、そのためにあらゆる国家諸力を総和して対処するとの強い意志をもって「外交力」を駆使することが求められていると考えます。

冒頭の福島原発の処理水をめぐる岸田首相の発言などについても、“外交上の最優先課題を念頭におき、「何を発言すべきか」を考えているのか”と言いたくなるのです。逆に中国側は、発言の一言一言が自分たちにとって“最も有利な態勢造り”(つまり「国益」)を考えつくした上での内容であることは明白です。中国との間では、しばらくこのような「外交戦」や非軍事面の“戦い”が続くことでしょう。ひるんだ方が負けですし、実際に「台湾有事」が現実になった場合に被る影響は途方もないものがあります。

ポスト・ウクライナ戦争において、我が国はロシアとどのように向き合っていくべきかについても外交上の課題となることでしょう。中国、ロシア、それに北朝鮮を相手に、我が国の「政治力」(外交力)が本当にその力を試されるのはこれからでしょう。

▼「国力」の1要素としての「政治力」総括

様々な危機に直面している今、「国力」の維持に代表されるような、次の世代に残していかなければならない「国家のあり様」に関する根本的改革に向けた議論が待っていると私は考えます。その牽引車は、何と言っても政治家の先生方であり、強い「政治力」をもってはじめて成し遂げられることでしょう。

前にも、「政治家のだれかが『君子豹変』することをひたすら祈り続けている」と書きましたが、今を生きる世代の先頭に立って、我が国の「政治力」、ひいては「国力」の大幅アップにチャレンジしようとする、卑近な言葉を使えば、“真っ当な政治家(達)”の出現を待望したいものです。

思いの丈をだらだらと書き綴ってしまいました。門外漢の立場であまり口を出すと、様々な批判の声が聞こえてきそうなのでこのあたりで止めますが、さほど優先順位が高いとは思わないような案件が政局となって貴重な時間を費やし、それを年中行事のように繰り返していることが、結果として国民の政治不信と政治離れを加速し、「選挙と政局しか関心がない政治家」と揶揄されるような“現状”になっているのではないでしょうか。

政治家の先生方には、我が国が直面するであろう厳しい将来環境とともに、このような“現状”の根本原因の究明と対策について、“自らの身を切る”覚悟で分析・検討して改善してほしいと願っています。実際に少子高齢化に向かう我が国にあっては、国政も地方自治体も現在のような政治家や官僚(地方公務員)の規模を抱えている余裕はなくなることでしょう。そんなに遠くない将来に、政治家の質と量両面から“大ナタを振って”大改革を断行しなければならない時期が迫っていると考えます。

一方、有権者たる国民の方も、このままでは将来に禍根を残すことでしょう。前に紹介しましたが、イギリスの歴史家トーマス・カーライルの「この国民にしてこの政府あり」の言葉のように、選ぶ側のレベル以上の政治家が輩出されることはなく、その延長で政府もそのレベルに留まるということは、戦後、我が国が“最適な制度”として選択した(選択させられたというのが真実かも知れませんが)民主主義の本質です。

どちらが鶏か卵か、は難しいですが、政治家としての「資質」を有する人物を指導者として選ぶのは有権者たる国民です。そのため、国民のレベルを上げていく必要があることもすでに述べました。しかし、戦後70数年の間に定着し、「戦後の形」を形成している国民の「行動原理」を“1ミリでも変える”ことは容易なことではありません。

このあたりの「国民意識」についは最後に取り上げようと思いますが、その第1歩として、次回以降取り上げる「科学技術」や「教育」にも“メスを入れる”必要があるでしょう。私たち・戦後世代の責任として真剣に取り組まなければならい分野はまだまだあると思っています。“間に合えば良いが”と、つい考えてしまいます。(つづく)

宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学校卒業後、陸上自衛隊入隊。1978年、米国コロラド大学航空宇宙工学修士課程卒。陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕僚副長、第1高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、第6師団長、陸上幕僚副長、東北方面総監等を経て2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。日本製鋼所顧問を経て、現在、至誠館大学非常勤講師、パソナグループ緊急雇用創出総本部顧問、セーフティネット新規事業開発顧問、ヨコレイ非常勤監査役、公益社団法人自衛隊家族会理事、退職自衛官の再就職を応援する会世話人。著書『世界の動きとつなげて学ぶ日本国防史』(並木書房)

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著者

宗像久男

1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学校卒業後、陸上自衛隊入隊。1978年、米国コロラド大学航空宇宙工学修士課程卒。陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕僚副長、第1高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、第6師団長、陸上幕僚副長、東北方面総監等を経て2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。日本製鋼所顧問を経て、現在、至誠館大学非常勤講師、パソナグループ緊急雇用創出総本部顧問、セーフティネット新規事業開発顧問、ヨコレイ非常勤監査役、公益社団法人自衛隊家族会理事、退職自衛官の再就職を応援する会世話人。著書『世界の動きとつなげて学ぶ日本国防史』(並木書房)