我が国の未来を見通す

メルマガ軍事情報の連載「我が国の未来を見通す」の記事アーカイブです。著者は、元陸将・元東北方面総監の宗像久男さん。我が国の現状や未来について、 これから先、数十年数百年にわたって我が国に立ちふさがるであろう3つの大きな課題を今から認識し、 考え、後輩たちに残す負債を少しでも小さくするよう考えてゆきます。

Home » 『強靭な国家』を造る » 「強靭な国家」を目指して何をすべきか » 我が国の未来を見通す(93)『強靭な国家』を造る(30)「強靭な国家」を目指して何をすべきか(その20)

我が国の未来を見通す(93)『強靭な国家』を造る(30)「強靭な国家」を目指して何をすべきか(その20)

calendar

reload

我が国の未来を見通す(93)『強靭な国家』を造る(30)「強靭な国家」を目指して何をすべきか(その20)

□はじめに

 毎日のように報道されているガザ地区の状況ですが、個人的にはイスラエル“強さ”のみが目立つ戦闘であるとの印象を強く持っています。

11月15日、ついにイスラエルはガザ地区の最大病院のシーファ病院に突入しました。イスラム原理主義組織ハマスは、2005年にガザ地区からイスラエルが完全撤退した後、同地区で病院や学校などのインフラを整備するなどして住民から支持を獲得していましたので、病院や学校などの地下に軍事拠点を設け、これらの施設をトンネルでつなぐことなどはそれほど難しいことでありませんでした。

しかも、イスラエルが地下施設を攻撃するような場合には、病院の患者などを「人間の盾」としても活用することも当初から視野に入っていたという“極めて巧妙な戦略”のもとで建設したものと推測できるのです。

その際に、多くの犠牲者が発生すれば、アラブ世界や国際社会がイスラエルを批判し、その結果、最善策として、イスラエルが“ひるむ”ことまで期待していたことでしょう。しかし、実際には、イスラエル側はある程度の犠牲者は覚悟の上で、病院を包囲し、地下施設の入り口を突き止め、破壊するという作戦を断行しました。

冒頭のイスラエルの“強さ”とは、このような戦闘上の強さに留まらず、国際法違反であるとの批判や、バイデン大統領をはじめ西側世界など本来“身内”の国々や国連の説得にも全く耳を貸さず、作戦を継続していることです。私たちは、これが“イスラエルという国である”ということを知る必要があるのです。

ハマス側にとっては、これまでの歴史から、この程度のイスラエルの行動は“読み切った”上で、長年、練りに練った作戦として、10月8日、奇襲攻撃を実施し、250人以上のイスラエルの民を殺し、約240人の人質にとるという、ほぼ予定どおりの成果を得たのでしょう。

その報復として、半数に近い子供たちを含む1万1千人を超えるパレスチナ人が犠牲になり、今もその数は増えつつあります。しかし、ハマス側に当初からパレスチナ人を「守る意思」がないとすれば、多くの犠牲者が出ることに痛みを感じることなく、自らの目的達成に向けて戦いは今後も継続することでしょう。

イスラム世界には、「死ねば天国に行ける」という“ジハード”という教えがありますので、ハマス側も“玉砕”覚悟なのでしょうから、人質救済などの一次的な休戦は実現しても、この戦争はそう簡単には終結しないと覚悟する必要があると考えます。

そして戦争が一段落しないことには、イスラエルとパレスチナの共存の道は開けないでしょう。近ごろ、マスコミであまり見かけないと思っていたパレスチナ自治政府のアッバス議長は、10日、ヨルダン川西岸地区から「今回の事案はイスラエルに全責任がある」とした上で、「パレスチナ自治政府は、独立したパレスチナ国家に基づく広範な政治的解決策の一部となり得る」と発言したことがニュースになっていました。しかし、この案をイスラエルが“呑む”とは到底考えられません。

パレスチナ自治政府が統治するはずのガザ地区が、長年、ハマスに支配されていたことが今回の事案発生の最大の要因との見方もでき、自治政府の統治能力の非力さ、そしてその責任も逃れられるものではないと言えるでしょう。

また、ではイスラエルがハマスの長年の動きをどこまで承知していたかは不明ですが、イスラエルが自治政府主流派ファタハに対してハマスを“さや当て”のような格好で容認し、ハマスに対するカタールなどからの資金援助も黙認していたという説もあります。その実態は複雑怪奇ですが、イスラエルは頭から自治政府を信用していないのではないでしょうか。

ハマスの巧妙な慈善事業がガザ地区のパレスチナ人の間に浸透していることが背景にあるのでしょうが、パレスチナ人から「これほどの犠牲者を出ている要因はハマス側にある」との批判の声が、知る限りにおいて聞こえて来ないのも不思議です。

だれかも指摘していましたが、「日本のマスコミは、ハマス側が開示した情報に基づくものが多い」との印象を持ちます。ユダヤ教とイスラム教の宗教戦争の“根の深さ”や“本質”について、多神教の私たち日本人には理解できるレベルではないことを知る必要があるでしょう。産まれたばかりの子供たちが放置されている映像をみると涙が流れますが、なぜそのような状況になっているかについて、感傷的なレベルではとても判断できないと悟るべきと私は考えます。

▼「ソフト・パワー」の総括

私は、これまでの「国力」の定義に倣い、「ハード・パワー」と「ソフト・パワー」を“足し算”ではなく、“掛け算”で掛け合わせて定義し、ハードかソフト、どちらかのパワーがゼロになると「国力」はゼロになってしまうことを意味すると指摘しました。

「ハード・パワー」がいずれも「下降期」にあるとはいえ、それぞれの要素がゼロになることはないと考えますが、「国家戦略」と「国家意思」から成る「ソフト・パワー」は時として“ゼロとみなされる”ことはしばしばあったことも紹介しました。その一例が、湾岸戦争時に135億ドル(約1兆7500億円)もの巨額の財政支援を実施しながらも、国際社会から何ら評価されず、「血と汗のない貢献」とか「小切手外交」と揶揄されたことでした。

そして、「ハード・パワー」が「下降期」にある今だからこそ、「これ以上の『国力』の低下を防止し、あわよくば上昇に転ずる」ことを主目的とする「回復戦略」を柱に、国内外の歴史的変動の中にあって、「安全」と「富」両方の目標達成を企図する「国家戦略」として創り上げる必要性についても述べました。

また、現時点では、“内向きのまま”無きに等しい「国家意思」についても、戦後70数年の間、一度も議論されることもなく、時が流れたことを紹介しました。「国家意思」は、民主主義国家である以上、国民一人ひとりの意思や精神の集大成であらねばならないこと、そして、大方の国民が認識しなくとも、我が国には誇るべき“本質的特性”を有しており、それらを核(コア)にすることによって、多くの国民が抵抗なく賛同し、「国家意思」として“我が国の向かうべき方向”について一致することができるのではないか、とも提案しました。

歴史を顧みるに、「国家意思」の“後押しする”があってはじめて「国家戦略」がその威力を発揮すること、逆に「国家意思」の“後押しのない”「国家戦略」は脆く、最悪の場合、その戦略を行使する過程のいずれかの段階で失敗に終わった例は数多くあり、「国家戦略」と「国家意思」は不離一体であらねばならないことは明白です。

ここまで考えると、実は、「日本社会のあり様」の“次元”をはるか超えて、「国のかたち」そのものまで議論する必要性を感じていることも事実ですが、細部は本メルマガの最後に総括しましょう。

さて、アメリカの国際政治学者でしばしば政府高官を務め、かつて「対日政策提言」を行なった一人としても有名なジョセフ・ナイ氏は、2004年に『ソフト・パワー』を上梓し、“威圧の力”である「ハード・パワー」に比して、“人を引き寄せる力”である「ソフト・パワー」の重要性を世に広めました。

ナイ氏は、ソフト・パワー論を通じてアメリカの政治学界の第一人者になったといわれていますが、「その国に有する文化や政治的価値観、政策の魅力などに対する支持や理解、共感を得ることによって、国際社会からの信頼や発言力を獲得し得る」として、「21世紀の国際政治を制する見えざる力」であると主張しました。

そして2022年には、ロシアのウクライナ侵攻のような「力ずくの時代」であっても、「ソフト・パワーはなお有効である」とし、「『文化』『政治的価値』『政策』の3つの源泉に由来する『ソフト・パワー』が、国内でのふるまいや国際機関でのふるまい、そして外交政策を通じて、他国に影響を与えることができる」と再び強調しました。(読売新聞オンラインより)

ナイ氏はまた、「価値が権力をつくり出す」として、最近の中国の戦狼(せんろう)外交のような強引なやり方を批判しつつ、アメリカは様々な問題を抱えながらもその強みは「多様性」にあるとして、「ソフト・パワー」の点で中国を凌駕していると解説しました。

私は、この主張の中に、我が国の目指すべき「ソフト・パワー」のもうひとつのヒントがあると考えます。「国力」が「下降期」にあると、どうしても国内問題に重点が行きがちですが、将来に向けた「国力」の維持、可能ならば増強を企図しつつも、その時点の「国力」をベースに、「文化」や「政治的価値」や「政策」のいずれかの分野で国際社会における必要な役割を行使し、「存在価値」を高めるための「ソフト・パワー」も重要な意味を持つと思うのです。

まとめますと、「国力」を構成する「ソフト・パワー」として、前回紹介したような、我が国独自の“強み”をベースに「国家意思」を統一するとともに、国家の最重要な目的として「安全」と「富」の両方を到達目標にして、総合的な「国力」の維持向上に寄与するとともに、“孤立国・日本”ならでは特性を活かして国際社会における「存在価値」を高めることを企図する「国家戦略」を策定することが求められていると考えます。

そのような狙いや構想を有する「国家戦略」と「国家意思」を一日も早く具体化し、日本国としての“生き様”を明示しつつ、我が国が“国家として向かうべき方向”を定めることが重要ではないでしょうか。

▼「ハード・パワー」と「ソフト・パワー」の“掛け算”

 

以上をもって、とりあえずの「ソフト・パワー」の総括としたいと考えますが、「下降期」にある「ハード・パワー」と「ソフト・パワー」をどのように“掛け算”するかという“難題”がまだ残っています。

再びナイ氏に登場願います。ナイ氏は『リーダー・パワー』を2008年に上梓し、今日の世界では、「力」と「リーダーシップ」の両方の変化が求められるとして、「力」は(前述のような)「ハード・パワー」と「ソフト・パワー」の両面を備えたものであるとして、「リーダーシップ」についても「ハード・パワー」と「ソフト・パワー」の両方のスキルを兼ね備えたものが要求されるとしています(これを「スマート・パワー」と呼称しています)。

つまり、「ハード・パワー」と「ソフト・パワー」を“掛け算”する(組み合わせる)には、ぞれぞれのスキルを併せ持った“強いリーダー”の存在が欠かせないと主張しています。全く同感と言わざるを得ないでしょう(本書は、「リーダーシップ」を学ぶ上でも極めて示唆に富む内容満載の一冊ですが、本メルマガの主旨とかけ離れるために細部は省略します)。

それを前提にしてもう少し踏み込んで考えてみましょう。繰り返しますが、「国家戦略」の目標に「安全」と「富」の両方を盛り込むべきことはすでに紹介しました。確かにその時代によって“「安全」か「富」か、どちらを優先させるか”の選択肢はあることでしょう。

しかし、「富」を重視するあまり、「安全」について米国にほぼ丸投げしてきた「吉田ドクトリン」の再現は、現下のような情勢下かでは適合しないことは明白ですし、一方、現下の厳しい情勢下で「安全」を優先するとはいえ、戦前のような“軍事最優先”を選択することも不可能でしょう。

「安全」と「富」を構成している要素を細部にわたって分析し、一方の目標達成を追求するあまり、もう一方にとっての致命的な欠陥にならないように、両者のバランスを取りつつそれぞれの目標の優先順位などを取り決めることが重要なのです。

そのようにすれば、(何度も繰り返しますが)太陽光発電所を建設するために助成金を出し、(単価が安いという理由だけで)外国資本の発電所を誘致し、広島県ほどの面積の国土を外国人に売り渡したりはしなくなるでしょう。「安全」を視野に入れることによってはじめてそのことの重大さに気がつくのです。

さらに、「富」を目標にする場合であっても、「ハード・パワー」のうちの「人口」、「経済力」と「食料・天然資源」は相反するところがあります。つまり「人口」が減ると、それに比例して「経済力」は低下しますが、食料自給率とかエネルギー自給率の視点に立てば、需要が減ることは明白ですので、それぞれの自給率の低下は回避できます。現時点では考えられませんが、「食料自給率を向上させるための人減らし」のような、“とんでもない愚策”は回避できることでしょう。

一方、エネルギーの安定供給を犠牲にして、「脱炭素」政策がすでに走っていますが、「国家戦略」を明らかにすることによって、何らかのブレーキがかかることも期待できるのではないでしょうか。

このように、「ハード・パワー」の各要素のうち、それぞれに優先順位とか、バランスとか、踏み込んではならない限界などを明確にすることが必要不可欠なのですが、それぞれの専門家にそれを期待するのは難しいのが現実です。

「ソフト・パワー」、中でも「国家戦略」の「安全」と「富」の両目標を達成するという狙いから、「ハード・パワー」に(表現が難しいですが)“網をかぶせる”ような行為がどうしても必要になって来ると考えます。

そのためには、ナイ氏が言うような、「ハード・パワー」と「ソフト・パワー」の両方のスキルを兼ね備えたリーダー、つまり、文字通り、力のあるジェネラリスト(たち)が必要不可欠なことは論を俟たないでしょう。

そのような力のジェネラリスト(たち)が今の我が国に存在するでしょうか。今は存在しなくとも、将来育ってくるでしょうか。仮に現れたとしても、そのようなジェネラリスト(たち)を多くの国民が支持し、ジェネラリスト(たち)の指示を素直に受け入れるでしょうか。

乗り越えなければならない「壁」はまだまだありそうですが、これらの「壁」を乗り越えなければ、「我が国の未来は無きに等しい」、言葉を代えれば、メルマガのタイトル「我が国の未来を見通す」ではなく、「我が国の未来が“見通せない”」との懸念を持つのは私だけでしょうか。正直に申し上げれば、「私だけの“取り越し苦労”であってほしい」と本当に願っている毎日です。

さて気がつけば、90話の大台を突破してしまいました。まもなく本メルマガを完結させたいと思います。次回、第4編の「『強靭な国家』を造る」を総括し、本メルマガ全体の「まとめ」に入りたいと考えています。どこまで“踏み込んだ状態”でまとめるかについては現在、悩んでおります。皆様、どうぞ最後までお付き合いください。(つづく)

宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学校卒業後、陸上自衛隊入隊。1978年、米国コロラド大学航空宇宙工学修士課程卒。陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕僚副長、第1高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、第6師団長、陸上幕僚副長、東北方面総監等を経て2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。日本製鋼所顧問を経て、現在、至誠館大学非常勤講師、パソナグループ緊急雇用創出総本部顧問、セーフティネット新規事業開発顧問、ヨコレイ非常勤監査役、公益社団法人自衛隊家族会理事、退職自衛官の再就職を応援する会世話人。著書『世界の動きとつなげて学ぶ日本国防史』(並木書房)

この記事をシェアする

関連記事

著者

宗像久男

1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学校卒業後、陸上自衛隊入隊。1978年、米国コロラド大学航空宇宙工学修士課程卒。陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕僚副長、第1高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、第6師団長、陸上幕僚副長、東北方面総監等を経て2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。日本製鋼所顧問を経て、現在、至誠館大学非常勤講師、パソナグループ緊急雇用創出総本部顧問、セーフティネット新規事業開発顧問、ヨコレイ非常勤監査役、公益社団法人自衛隊家族会理事、退職自衛官の再就職を応援する会世話人。著書『世界の動きとつなげて学ぶ日本国防史』(並木書房)