我が国の未来を見通す

メルマガ軍事情報の連載「我が国の未来を見通す」の記事アーカイブです。著者は、元陸将・元東北方面総監の宗像久男さん。我が国の現状や未来について、 これから先、数十年数百年にわたって我が国に立ちふさがるであろう3つの大きな課題を今から認識し、 考え、後輩たちに残す負債を少しでも小さくするよう考えてゆきます。

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我が国の未来を見通す(77)『強靭な国家』を造る(14)「強靭な国家」を目指して何をすべきか(その4)

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我が国の未来を見通す(77)『強靭な国家』を造る(14)「強靭な国家」を目指して何をすべきか(その4)

□はじめに

 前回、字数の関係で先送りした“論点”を先に紹介しておきます。先日、都内某駅前の道路を歩いていた時、ある建物の入り口いっぱいに「軍拡より生活 平和な未来を」と2行にわたる大きなポスターのような看板が目に入ってきました。確かにそのような主張する政党などもありますので、政党か何かの建物かと思って注意深くみてみますと、何と、立派な“病院”でした(細部はあえて省略します)。しばらくの間、「病気やけがを治し、人の命を救う病院の玄関にふさわしいのだろうか」との疑問が頭から離れませんでした。

最近、沖縄の与那国島では「自衛隊が来たからミサイル攻撃の目標になるのが怖い」と発言する住民の声があたかも島民の大多数の考えのように報道されたり、石垣島では「自衛隊を人口に含めるな」との某地元紙の社説も波紋を呼びました(さすがに後日、謝罪記事を掲載したようですが)。

現役時代から、何度もこのような主張を耳にしてきましたが、立場上表立った反論はできませんでした。今はもう“失うものはない”ので、あくまで個人的な率直な印象のみを述べておきたいと思います。

病院の看板は、「軍拡、つまり防衛力を増強すれば、生活が苦しくなり、平和も壊れる」と言いたげなフレーズですが、逆に「軍拡さえしなければ、生活が豊かになり、平和も続く」と信じ込んでいるのでしょうか。

言うまでなく、防衛力を増強し、自衛隊を国土の隅々まで配置する目的は、現在の国民の生活や我が国の平和が永遠に続くよう万全を尽くすとともに、万が一にもそれが侵されそうな事態になった時には、まさに“病院が病人やけが人を治す”ように、被害を最小限にするための処置です。つまり、上記のフレーズは、言葉を代えれば、「病院があるから、病人やけが人が出る」と言っていることと同じなのです。優秀な医者の先生方の集まりである病院がなぜそのことに気がつかないのか、不思議でなりません。

残念なのは、このような方々は、「普段の生活や平和がどうやって維持されているのか」などには全く考えが及ばず、それどころか、「何も抵抗せずにして外国に占領されても、普段の生活や平和が維持できる」と勝手に思い込んでいる節があることです。古くは欧米列国の植民地、現在でも中国の占領下にあるチベットや新疆ウイグルで何が行なわれているかを知れば、そのような考えは一挙に吹っ飛ぶはずです。

関係しているマスコミ人も同様の認識なのでしょう。「表現の自由」を盾に、「自衛隊がいなくなれば、簡単に占領されてしまう可能性がある」ことなどには全く思いが至らず、“思慮が至らない”街中の声をあたかも真っ当な意見のように報道するのだと思います。

我が国は、戦後70年余りの間に、どうしてこのような“能天気な大人たち”を大量に輩出してしまっているのでしょうか。それでも、一般の国民の皆様には正確な情報が届かず、学校でも教えられず(たぶん、逆のことを教えられ)、国の防衛などについて考える機会も余裕もなかったと言い訳ができることでしょう。

しかし、一部のマスコミや政治家、そしてその道では優れた知見をお持ちの高名な有識者の中にも同じような思想を持っている人がかなりおられるのはショックです。一例を挙げましょう。最近、手に取って読ませていただいた1冊に『主権者を疑う』(駒村圭吾著)があり、「主権者とは何か」を考えさせてくれる、私に取りましてはとても興味深い1冊でした。

しかし、その「はしがき」には、「改憲と言う重大なプロジェクトの前提となるような、“今そこにある危機”や“忍び寄る危機”がどうしても見当たらない。少なくともそれらが“国民に共有される”ようなかたちで議論が展開されていない」として、著者は、「憲法改正を否定しているわけではないが、私が否定的なのは、意味不明な政治状況で改憲が提案され、議論されることに対してである」との立場を述べていました。

ことさら批判する気はありませんが、正直、「これほど優秀な方が、またこれほど勉強しているのに、もったいないな」との印象を持たざるを得ませんでした。書籍を発刊するような有識者は、少なくとも国民を誤って誘導するような言動は厳に慎むべきと思いますが、現時点においても我が国には様々な課題が山積しており、近未来も、遠い将来も、国内外の情勢がますます厳しくなる可能性が大と考えます。一方、これほどの「危機」が差し迫っていても、“眼をふさぎ、耳を閉じ、関心を持たなければ”何も見えません。そして、そのような自分自身を、不勉強とも、偏っているとも、恥とも思っていないことでしょう。

私が「もったいない」と考えたのは、少しでもそれらに気がつけば、また違った視点で「主権者」について解説できたのではないか、と考えたからでした。

このような認識の方々から導かれる結論は、せいぜい「今のままで何が悪いのか」でしょう。かなり多くの政治家、マスコミ人、有識者、そして我が国の未来などに関心もなければ考えたこともない、大多数の国民はこのような認識で留まっているものと想像します。そして、そのような“現実”を知っているから、小室氏のような方でも“歩き出す”で止まってしまったではないでしょうか。

我が国の最大の課題・問題点は、小室氏が「アノミー」と表現した社会現象に代表され、かつ「権利のみ主張し、義務を果たさない国民」とか「3メートル以内しか関心がない若者」と揶揄されるような、多くの日本人の「行動原理」にあると考えます。それが「政局と選挙しか考えない政治家」とか、自己主張に固守し「目立つことしか考えない言論人」などを生み出し、それが巡り巡って、このような現状を“矯正”できない主要因となっていると考えます。

よって、少数の先見者が様々な形で警鐘を鳴らしても、あるいはウクライナ戦争のような具体例をもって注意喚起してもほとんど届かないのでしょう。

我が国が少なくとも現状程度の「国力」を保持し、国際社会で「名誉する地位」を保ちながら、後世にこの日本を残すために、私たちの世代がやらなければならないことは、「国力」の要素のどれ一つとして簡単なものはないと思います。どうしても「ソフト・パワー」として、個々の要素を束ねて向かうべき方向を定める「国家戦略」のようなものが必要と考えていた矢先でした。

偶然にも「戦略は統治を超えられない」という言葉を見つけ(『軍事と政治 日本の選択』(細谷雄一編)より)、再び立ち止まりました。歴史を振り返ると、大正時代の政治家や有識者たちも当時の内外情勢の変化などに無頓着で、主に大日本帝国憲法に謳われている我が国の「統治機構」がこのままでよいのか、などには露ほども思いが至らなかったようですが、それが「激動の昭和」を迎える大きな要因にもなりました。

見方によっては、大正時代と現在は“よく似ている”と考えますが、最大の違いは「主権が国民にある」ことでしょう。つまり、最終的には、どうしても“統治”の主役である「主権者」の「行動原理」、その基となる「国民の精神」に行き着くのです。

「戦略は統治を超えられない」は、改めて、「現憲法下で我が国は未来へ立ち向かうことができるのか」を私達に突き付けているような“重い言葉”となって響いてきます。そしてその先に、大方の“能天気な国民の精神”を、戦争や天変地異や外圧に委ねることなく、“内側からの改革”として、どのように変えていけばよいのだろうか、という命題に突き当たるのです。

細部はいずれまた触れることにしますが、またしても「任重く道遠し」の感を一層強くしながらも、気を取り直して、今回以降、再定義した「国力」のそれぞれの要素を分解しつつ、我が国が向かうべき方向、私たちの世代があらゆるものに優先してやるべきこと、やらなければならないことを微力ながら導き出そうと思います。

▼「人口」が「国力」に及ぼす影響

「はじめに」が長くなりました。さっそく 前回取り上げたように、「国力」の柱となる「ハード・パワー」のそれぞれの要素から考えてみましょう。その筆頭は「人口」です。

これについては、本メルマガの第1編で18回にわたり、様々な角度から割と詳しく分析し、書き綴りました。興味ある方は、バックナンバーをお読みいただきたいと思います。それにしても、最近、「少子化対策」などを取り上げる記事や解説が目立つようになりました。「少子化」などの文字自体が多くの国民の目に触れることはとても良いことと思います。

私はすでに、「少子化対策」として「“3人産んだら家が建つ”くらいの超異次元の政策が必要」と主張しましたが、マクロ経済学の専門家・小黒一正氏も「第3子以降、1時金1000万円に」と抜本的な対策を提案していました(産経新聞6面(7月9日朝刊))。小黒氏は、「“既婚者にさらに一人でも多く産んでもらう”『有配偶出生数』を引き上げことに資源を集中すべき」として、そちらの方が婚姻率などを高めることなどより“近道”としています。

最近、マスコミでは「500万円の壁」が話題になっています。内閣府の資料では、男性の有配偶者の年収「500万円」が“子供を持つかどうかを分ける最低ラインになっている”とのことです。一方、既婚男性の年収は400万円台が最多で、不足分は共稼ぎによって「500万円の壁」を突破しているようですが、そうなると、出産・子育てを機に仕事を辞めざるを得ないケースも珍しくありません。

すでに、パパ育休制度の推進とか児童手当の増額なども「こども未来戦略方針」に盛り込まれていますが、「月額数万円を増額したことで結婚や出産に踏み切る人は少数派だろう」と分析されていることも事実です。その対策として、公務員やサラリーマンなど社会全体で、“子育てが終了した世代の賃上げは抑制してでも、若者世代の賃上げを優先する”ような、思い切った給与制度の改善なども必要なのでしょう。

イマイチ盛り上がりに欠けることに危機意識を持ったのでしょうか、岸田首相は、「政策を気兼ねなく活用してもらうために社会が変わらなければならない」として、「少子化対策国民運動」をスタートすることを決意したようです。

しかし、今後、この国民運動が盛り上がるかどうかは疑問でしょう。「どうやって社会自体をかえていくか」の提示もなければ、「最近の支持率低下を防止するためのその場凌ぎ」などと揶揄されているようでは、首相の“発信力(本気度)”が国民に届く可能性が低いように思えてなりません(読む限り、関連記事も1回のみでした)。

メルマガですでに取り上げましたが、我が国は、非嫡出子が2.3%と50%を超えるフランスや北欧諸国などと比較してとても低いことを例示しながら、「日本の『少子化』の原因は、『直系家族病の病』」だ」とするような意見(『老人支配国家日本の危機』(エマニエル・トッド著))もあります。

トッドは、「核家族」化が進んできたとはいえ、「日本に依然として強く残っている『家族』の過剰な重視が『非婚化』や『少子化』を生み、逆に『家族』を消滅させてしまっている」というのです。その対策として、欧米のように、子育ても老人介護も公的扶助によって「家族」の負担を軽減させる(ほぼゼロにする)必要があると提言します。

これは、後に述べる日本の「文化」の問題でもあるのですが、「人口」は「経済力」と正比例の関係にあることから、「国力」維持の“一丁目一番地”とも言えるでしょう。その「人口」を確保するためには、我が国の伝統的な「文化」の領域にまで踏み込んで考える必要があるという点には私も同意です。

さて、「人口」の中の要素の「人的資源」についてこれまでほとんど触れませんでした。世界に誇れる「ものづくり」の精神や技術、及び(すでに紹介しましたような)無形の価値としての「インタンジブルス」のようなものはすべてこの「人的資源」に包含されると考えます。

一方で、後に詳しく述べる「教育」の実態や最近の若い世代の価値観、そして「働き方改革」などによって大きな曲がり角にある雇用環境など考える時、「将来の『人的資源』は大丈夫だろうか」との懸念を払しょくできないことも事実です。

「少子化」になればなるほど、一人ひとりの「真の力」が試される機会が増えることは間違いないでしょう。幸い、AIをはじめデジタル化やロボットの活用など、人的資源を補完する資源が増える傾向にありますが、それらを有効かつ適切に使いこなすのは何と言っても「人間」でしょうから、「人口」の質的側面の尺度としての「人的資源」は、“その時代時代に適合する人材をいかに多く抱えるか”に集約されると考えます。そのような視点に立った教育や人材育成が求められてきていますが、それぞれの“現場”はどうなっているのでしょうか。この続きは、「教育」のところで触れたいと思います。

「高齢化」の問題点については第1編で詳しく取り上げましたので省略しますが、焦点は、“「少子化」がさらに加速すれば、国が滅ぶ”との「危機意識」を全国民が共有できるかどうか、そしてどのようにして共有するか、にかかっていると考えます。

このような発言をすると“袋叩き”に遭うような気もしますが、かつての日本には「産めよ、増やせよ」という時代があったのです。この後に「地に満ちよ」と続くフレーズは旧約聖書の言葉ですが、大東亜戦争最中の昭和16(1941)年1月22日に閣議決定されました。いわゆる“敵国”のフレーズをそのまま引用して人口増加を目論んだ当時の為政者たちは相当先の日本まで思い描いていたことでしょう。

今では、「軍国主義の象徴的な人口政策で、個人の権利を侵害する決定であった」旨の批判もありますが、翌日の「朝日新聞」1面は、「日本民族悠久の発展へ」の大見出しで本閣議決定がトップ記事で紹介されていました。敗戦はしましたが、この「唱導」(当時は、このように呼んでいました)のもとの国民精神が全国津々浦々に行き渡り、終戦時の約7千2百万人から、終戦直後のベビーブームを含めて、現在の1億人を超える大国になるまで成長させたのでした。

ちなみに昭和26年生まれの私は、7人兄弟の末っ子ですが、私たちの親の世代は、終戦後の食料事情が極端に悪い中でも、我が国の未来のために子孫を残してきたのです。「時代が違う」と言えばそれまでですが、戦争を体験した世代のご苦労に比べれば、「500万円の壁」などはさほどの障壁ではないと思ってしまいます。要は、国民がこぞって「危機意識」を持つかどうかにあると私は考えます。

そのためには、目先の「少子化対策」とか、言葉だけが先行している「こども未来戦略方針」などの内容では何とも不十分で、冒頭に述べたような、「国の形」を問う「国家戦略」の範疇に及ぶものと考えます。それについてはのちほど取り上げましょう。(つづく)

宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学校卒業後、陸上自衛隊入隊。1978年、米国コロラド大学航空宇宙工学修士課程卒。陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕僚副長、第1高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、第6師団長、陸上幕僚副長、東北方面総監等を経て2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。日本製鋼所顧問を経て、現在、至誠館大学非常勤講師、パソナグループ緊急雇用創出総本部顧問、セーフティネット新規事業開発顧問、ヨコレイ非常勤監査役、公益社団法人自衛隊家族会理事、退職自衛官の再就職を応援する会世話人。著書『世界の動きとつなげて学ぶ日本国防史』(並木書房)

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著者

宗像久男

1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学校卒業後、陸上自衛隊入隊。1978年、米国コロラド大学航空宇宙工学修士課程卒。陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕僚副長、第1高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、第6師団長、陸上幕僚副長、東北方面総監等を経て2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。日本製鋼所顧問を経て、現在、至誠館大学非常勤講師、パソナグループ緊急雇用創出総本部顧問、セーフティネット新規事業開発顧問、ヨコレイ非常勤監査役、公益社団法人自衛隊家族会理事、退職自衛官の再就職を応援する会世話人。著書『世界の動きとつなげて学ぶ日本国防史』(並木書房)