□はじめに──「『強靭な国家』を造る」を総括するにあたって
「『強靭な国家』をいかに造るか」というテーマで20回にわたり延々と書いてしまいました。すべてが「強靭な国家」を造るという“「大目的」のため”ということから、あえて、毎回のテーマを変えないまま書き綴った結果でした。
改めて読み直してみますと、あくまで私の“独りよがり”ではあるのですが、“「強靭な国家」を造ることがいかに大変なことか”について再び考え込んでしまいます。
卑近な例をとりあげますと、現在ハマスと戦争の最中にあるイスラエルは、日本などと比較して、2000年にも及ぶ長い間、国を挙げてあらゆる分野で「強靭な国家」造りを最優先して実行し続けてきた国家であり、(すでに触れたような)その“強さ”は、昨日今日に出来あがったものではありません。
しかし、そのようなイスラエルであっても、今回のような事態を招く結果になってしまいました。ハマス側からすれば、10月8日の奇襲攻撃に対する報復が、現時点において1万5千人以上の犠牲者を含むガザ地区の壊滅に至ったわけですから、人質交換のための一時的な停戦合意は継続していても、その後の展開が不明であることを考えると、“割に合わない、とんでもないことをしでかしたものだ”と思ってしまいます。
イスラエルの“非情”ともいえる作戦は、単に報復に留まらず、“この機会にハマスを壊滅する、少なくとも、未来永劫にハマスに手出しをさせない”と、本来の戦略に立ち返ってこれまで以上に“強い決意”をもって作戦を遂行した結果でしょう。それこそが、これまでもそうであったように、将来のために「強靭な国造り」をめざすイスラエルという国の“生き様”であり、「国の形」であると私は考えています。
我が国にあっては、明治維新に「富国強兵」「殖産興業」という「国家目標」を打ち立て、迫りくる西欧諸国の脅威に立ち向かうことを主目的に、まさに“強靭な「近代国家」”を造ることを目指してきましたが、幾多の戦争や大震災、世界恐慌の影響などを経て、ついには「大東亜戦争」を招く結果となってしまいました。
「歴史は物語である」「歴史は検証できない」とは東洋史学者・岡田英弘氏の名言ですが、“仮に日本が明治初期に「富国強兵」などを唱えず、「近代国家」を目指さなかったら、その後の歴史はどうなったであろうか”については検証できないのです。
しかし、18世紀後半、地球の85%を支配した西欧諸国の植民地主義の拡大、その中でイギリスをはじめとする西欧諸国に割譲されるという形で独立を失った「清」の例などを見れば、明治以降の我が国の「国の形」が相当違っていただろうということは容易に想像できます。
現在から先の「未来」についても同様のことが言えるでしょう。“歴史の大きな転換点にある現時点”において、私たちが、後世のために未来起点のアプローチに基づき、さまざまな手段を行使して“「強靭な国家」造り”を目指そうとする場合と、逆にそのような努力を怠る場合とでは、我が国の「未来図」を大きく変わることは疑いようがないのです。
昭和16年、日米開戦に至る一連の交渉のなか、9月6日の御前会議で、海軍軍令部総長・永野修身が「戦わざれば亡国必至、戦うもまた亡国を免れぬとすれば、戦わずして亡国にゆだねるは身も心も民族永遠の亡国であるが、戦って護国の精神に徹するならば、たとえ戦い勝たずとも祖国護持の精神が残り、われらの子孫はかならず再起三起するであろう」と発言されたとの記録が残っています(フィクションだったという説もありますが)。
残念ながら、そのような精神は戦後、無情にもGHQによって打ち砕かれたかのように見えますが、これまで縷々述べてきましたような、日本人の根底にある“強さ”、 まさに中西輝政氏が指摘する「日本人の『荒魂(あらみたま)』」は、戦前の歴史を否定した大方の日本人には忘れられていても、各為政者の時々の発言などから、周辺国にはその記録や記憶が依然として“残っている”と想像できるのです。
「強靭な国家」造りの中で、「国家戦略」の目標として掲げた「安全」については、我が国は、今回のイスラエルのように、ハマスによる攻撃の後、つまり“有事”が起きてしまった後に「手を出すのではなかった」と思わせるのではなく、手を出す前から、「日本に手を出すと“大損”をする」と相手に“躊躇”させること、つまり「抑止」を目指さなければなりません。
これは容易なことではありませんが、その根底に永野軍令部総長のいう「祖国護持の精神」がなければならないことは明白でしょうし、周辺国に記録と記憶が“残っている”間に、「抑止」のための「強い意志」と「能力」を明示しておかねばならないと考えます。
本メルマガでは、あえて軍事とか安全保障には詳しく触れませんでした。しかし、終戦後、法律家や歴史学者など有識者たちがこぞって「再軍備」に反対していたことをはじめ、最近でも高名な経済学者が「日本経済の復興が最優先で、防衛力増強などやっている場合ではない」旨を自著に書き記していた事実を知って、「それぞれの専門家にまかせておいては、この国はダメになる」と思う危機意識がますます膨らみました。
前置きが長くなりました。我が国の未来に降りかかるであろう、ほかの「暗雲」でも同じことが言えると思います。それぞれの分野で“致命的な事象”が発生してから慌てても遅いのです。我が国が“苦手”としている「抑止」とか「未然防止」とか「回避」などをキーワードにして、「下降期」の中で“どんでん返し”を狙って“「強靭な国家」造り”を目指さなければならないとの認識が、私には一層強まっています。
▼「国家」を再生する
“強くて、しなやか”な「国家」をいかに造るかについて、これまで、“強靭性”を主に取り上げてきました。
実は、本メルマガの総括にあたる第4編を「『強靭な国家』を造る」とした訳には、“強靭性”のみならず、“「国家」の再生”の方にもかなりのウエイトがありました。今回はその「国家」について取りまとめておきたいと考えます。
ウクライナ戦争やコロナ禍の状況から、「自分の国を自分たちで守れない国は生き残れない」と気づいた元朝日新聞主筆の船橋洋一氏の言葉を紹介し、同氏の「日本には『国家安全保障』という『国の形』がない。そして、その『国の形』をつくるのを阻んできた『戦後の形』がある」との言葉も紹介しました。
私は、この発言を船橋氏の“自責の念”と解釈していますが、氏の書籍の中にも「国」という言葉が何度も出て来ます。一方、その「国の形」をつくることを拒んできた「戦後の形」にはとても“根深いものがある”とも考えてしまいます。
しかし、その要因は明らかでしょう。まずは、戦前、特に満州事変以降、軍部主導のもとの「挙国一致」が強調され、教育面でも「国粋讃美」とか「尽忠報国」などを強要されたことに対する“揺り戻し”、つまり「反動」があるのでしょう。
そして、終戦後、GHQの巧妙な対日政策もあって、その“揺り戻し”は、日教組など唯物史観に染まっている人たちにとっては自分たちの思想拡大の絶好のチャンスとなって、その“揺り戻しが度を越した”格好になりました。
なかでも、彼らが好むトロッキーの言葉である「すべての国家は暴力の上に基礎づけられている」が発展し、「国家は悪」として、「国」とか「国家」を全否定する考え方にまで拡大しました。
私は「国家論」について社会学的に深く解説できる能力はありませんが、少しだけ踏み込んでみましょう。まず「国家」の起源ですが、これもまた社会学的には解釈が分かれるようですが、門外漢の私が理解した言葉で要約してみます。
欧州諸国が「主権国家」として独立したのは、「30年戦争」(1618年~48年)の結果、疲弊した諸国が結んだ「ウェストファリア条約」(1648年)でした。その直後から「国家」の意義づけについて社会学的な論争があったようです。
まず、「ウェストファリア条約」によって、「王が持つ主権はキリスト教ではなく神から直に授けられたもの」(「王権神授説」)とする考えが普及し、王政国家が欧州各地に出来上がりましたが、その考えに反発するような格好で、3年後の1651年、有名な『リバイアサン』が出版され、著者のトマス・ホッブス(イングランドの哲学者)は、「自然状態では、人々は絶え間なく恐怖と暴力による死の危険さえある悲惨な状態にあり、そこを脱して、安全と平和を手にするために“社会契約”を結び、その結果、『国家』が出来上がった」と意義付けました。
これからしばらく過ぎた1690年、同じく英国の哲学者ジョン・ロックは『統治二論』を世に出し、「自然状態にある人間はすでに理性を持っている」としながら、「自分の自然権を守るために、その一部を放棄し、『1つの集合体』に委ねる、その集合体が『コモンウエルス』と呼ばれる『国家』の起源である」と説きました。
つまり、ホッブスが、「場合によっては生きるか死ぬかの岐路に立たされかねない自然状態にあって国家が不可欠である」としたのに対して、ロックは「国家は、自然権を破った者に対して有無を言わさず、強制的な手段をもって『処罰』するために作られた」として、「保険に加入するように『より大きな防御』のためにあり、必ずしも国家は不可欠なものではない」とも解釈したようです。
このように、“社会契約説”としての「国家」の起源が発展し、やがて「市民革命」に至って近代国家が出来上がるのですが、それからしばらく後、マルクスによる共産主義思想が普及し、「国家」の性質を「暴力の独占」とするトロッキー的な国家論が興隆することになります。
一方、同じ時代に生まれたドイツ社会学者のマックス・ヴェーバー(ウェーバー)は、名著『職業としての政治』(脇圭平訳)の中で、「国家とは、ある一定の領域の内部で、正当な物理的暴力行使の独占を要求する人間共同体である」と定義しました。
本書は、1917年、ドイツが第1次世界大戦で敗戦した後、ミュンヘンにある学生団体のために行なった公開演説をまとめたもので、それまでのドイツ社会が、「ドイツ帝国」は存在しても、多種多様な団体が物理的暴力をノーマルな手段として認めていた事実とは違った意義が「国家」にあると解説したのです。
しかも、トロッキーとは違い、国家の「“合法的な”暴力の独占」を定義し、「許容した範囲の中で物理的な暴力行使が求められている」として、「警察や軍隊はその主な道具・装置である」と解釈したのでした。
このように考えると、安全保障を米国に丸投げしたまま、あくまで「警察予備隊」として発足し、しばらく“再軍備”を否定し続けた「吉田ドクトリン」は、その後長い間、唯物史観の人たちに巧妙に利用されてしまいました。彼らは、マックス・ヴェーバーの「“合法的な”暴力を独占するのが『国家』である」との考えに至らないまま、(単なる暴力装置としての)「国家」自体を否定している間に時が流れ、我が国の「戦後の形」として定着してしまったと解釈できるのではないでしょうか。
余談ですが、マックス・ヴェーバーによって「国家論」を叩きこまれたドイツに、やがてヒトラー率いるナチスが合法的に誕生するのですから、歴史とは皮肉なものです。
さて、我が国の「国家」には、さらに長い歴史があります。我が国の建国は、まだ「国家」という呼称はなかったものの、「神武天皇の即位」(紀元前660年1月1日〔旧暦〕、2月11日〔新暦〕)とされていますし、近代国家の建設が始まった「明治維新」も「国家の起源」として考えられる場合もあります。
戦前の歴史家の巨匠・坂本太郎氏の『日本の歴史の特性』によれば、我が国の歴史の中で「国家」という文字が初めて出てくるのは、正倉院宝物の中の「国家珍宝帳」(756年頃に献上された献物帳(宝物の目録))だそうですが、この場合の「国家」は、現在の「国家」とは違う意味をもっており、国家はミカド、つまり天皇と同義に用いられていたようです。同様の表現は、当時の“現行法”であった「律」の中にもあり、同じく国家=ミカドを意味していたのだそうです。
つまり、トロッキーの「国家の性質を暴力の独占」のような概念を我が国の「国家」論に当てはめようとしたのは最初から無理があったのですが、結果として一人歩きしまったのでした。
今なお、公の場で「国」「国家」「国益」「国力」「国体」などの使用が何となく憚(はばか)られ、挙句の果てには「愛国心」のようなものまで否定され、放置されたまま今日に至っていることもすでに取り上げました。一日も早く、真の意味での「国家」の再生が望まれると考えます。
改めて、「国家」の現代的な理解をまとめてみますと、「国家」とは、「その領土と人口を通じて、特定の地域における社会的、政治的、経済的な活動を組織し、調整する役割を果たし、個々の国民が自由で平等な生活を送ることができるように、公正で公平な社会を維持するための枠組み」のようです。
つまり「社会的、政治的、経済的な活動を組織」を手段として、「個々の市民(国民)が自由で平等な生活を送ることができる」ことを目的とした「公正で公平な社会を維持するための枠組み」を指すということでしょう。
「国家」の起源にさかのぼるまでもなく、手段も目的もそれぞれが複雑で、幅広く、奥も深く、しかも現時点のみならず、未来においても、“自由で平等な生活”を担保する必要があるわけですから、そのためにも「国家」に「強靭性」を備える必要性がますます増大していると考えます。
▼国際社会に“リバイアサン”が復活した
さて、国際社会においても、冷戦後しばらくの間は、「国対国」の争いから「国対テロ集団」のような争いがクローズアップされてきました。しかし、このたびのウクライナ戦争を境にして、再び「国対国」の争いがクローズアップされ、それが発展して“新冷戦”のような「分裂の時代」が現実のものになってきました。
現下の情勢下、国際連合の無力さも露呈したこともあって、ホッブスの言葉を借りれば、国際社会は“リバイアサン”(つまり“怪獣”)が大暴れし、それを制御するのが困難な時代になりました。この厳しい国際社会の中で生き残るため、つまり、暴れまくる(可能性がある)“リバイアサン”から生命や財産や平穏な生活を守るためには、船橋氏の言葉を借りるまでもなく、個々の「国」あるいは「国家」を主体に物事を考え、同じ認識を共有する「国」どうしの“社会契約説”ともいえる「同盟」とか「連携」の必要性が“より増してきた”といえるでしょう。
“リバイアサン”を制御するためには、「外交力」とともに「軍事力」が必要なことは明白ですので、国家の“暴力装置”の重要性がより増して来たともいえるでしょう。しかし、その意味は、「世界同時革命」に立ちはだかった時点の国家の“暴力装置”と全く意味が違います。
総括しますと、厳しい国際情勢の中で、我が国が生き残るために、依然として存在している唯物史観、あるいは自虐史観の持ち主たち(ちょっとでもそのような考え方に同調する人たちを含め)が自分たちの信条とか先入観と決別する時が来たのではないでしょうか。つまり、マックス・ヴェーバーの「国家は“合法的な暴力”を独占する人間共同体」の考えを理解し、容認することが求められているのです。
そのステップを踏んで、時計の針を戻して再出発してこそ、大多数の国民がこぞって「国家」を取り戻し、後世のために“「強靭な国家」造り”に邁進できるものと考えます。
くどいようですが、戦前のように、あるいは中国や北朝鮮などのように、我が国にあっては、国家の「強制力」を行使できないのは明白です。「国を挙げて」、つまり「挙国一致」と唱えても、大多数の国民一人一人が“その気になる”ことがなければ、いかなる政策も「国家戦略」も絵に描いた餅にしかなりません。
すなわち、「『国家』を再生する」ことは「国民がその気になる(覚醒する)」とイコールでもあります。そのようなことを狙いつつ、「国家意思」を分析したつもりですが、天変地異や外圧に寄らず、いかにして“国民が自発的に覚醒するか”を考えると、そこにまた難題が待っていることもすでに述べたとおりです。
今回はここまでにしておきます。次回、我が国の「国家」論から派生する「統治のありかた」や「政治」についても取りまとめて、第4編の総括を終了したいと考えています。(つづく)
宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学校卒業後、陸上自衛隊入隊。1978年、米国コロラド大学航空宇宙工学修士課程卒。陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕僚副長、第1高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、第6師団長、陸上幕僚副長、東北方面総監等を経て2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。日本製鋼所顧問を経て、現在、至誠館大学非常勤講師、パソナグループ緊急雇用創出総本部顧問、セーフティネット新規事業開発顧問、ヨコレイ非常勤監査役、公益社団法人自衛隊家族会理事、退職自衛官の再就職を応援する会世話人。著書『世界の動きとつなげて学ぶ日本国防史』(並木書房)