我が国の未来を見通す

メルマガ軍事情報の連載「我が国の未来を見通す」の記事アーカイブです。著者は、元陸将・元東北方面総監の宗像久男さん。我が国の現状や未来について、 これから先、数十年数百年にわたって我が国に立ちふさがるであろう3つの大きな課題を今から認識し、 考え、後輩たちに残す負債を少しでも小さくするよう考えてゆきます。

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我が国の未来を見通す(67)『強靭な国家』を造る(4)「世界で最初に飢えるのは日本」なのか(その2)

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我が国の未来を見通す(67)『強靭な国家』を造る(4)「世界で最初に飢えるのは日本」なのか(その2)

□はじめに

米国の雑誌「タイム」が岸田首相のインタビューの特集記事として、「日本を軍国大国に変える」していた見出しを「平和主義だった日本を国際舞台でより積極的な役割をもたせようとしている」と変更したが、記事そのものは「軍事大国」としたまま変えていないとした記事がニュースになっていました。

当然、アメリカも言論の自由が保障されている国なので、だれが何を言ってもよいのですが、「タイム」誌の記者たる者が、この日本を「軍事大国」と呼称するぐらいの見識しか持ち合わせていないことに愕然とします。

GDP比2%の防衛費年額約10兆円はようやくNATOに肩を並べる水準ですし、アメリカは約8580億ドル(約114兆円)〔2023年度〕、中国の約1兆4505億元(約26兆3000億円)〔2022年度〕には遠く及びません。その上、未だ憲法にも明記されておらず、反撃能力を保有するとしても「専守防衛」という不可思議な防衛政策を堅持している我が国です。

この記者は、日本に対する「ビンの蓋」的な発想とか、「平和主義」の原点である「日本憲法はアメリカがつくった」などの思想を保有しているのでしょうか。このような時にだけ、「さすがアメリカ」と、“それが何を意味するかもロクに考えないまま”国内の同調者がことさらに騒ぎ立てることも問題なのです。

本当に困ったものですが、個人的には、様々な話題を世界に発信したい「タイム」誌なれば、もう少し“賢い記者”を抱えてほしいと願うばかりです。

▼「食料自給なくして独立なし」

前回の続きです。鈴木宣弘氏も引用している言葉ですが、食料に関してまさに“身につまされる言葉”を送りましょう。まず「食料を自給できない人たちは奴隷である」とのキューバの著作家ホセ・マルティの言葉です。我が国でも、明治時代、高村光太郎が残した言葉として「食うものだけは自給したい。個人でも、国家でも、これなくして真の独立はない」との有名な言葉もあります。

鈴木氏は、「日本に独立を名乗る資格があるのか」として、現政権などの政策に「食料自給率」の言及がないことを取り上げ、「日本には『食料安全保障』が存在しない」とも指摘します。

ゴールデンウイークを利用して、『安倍尊像回想録』を読破し、改めて諸所に感銘を受けましたが、農業政策に関する記述はほとんどありませんでした。安倍元総理は、財務省とはかなり喧々諤々の議論を重ねたようですが、「経産省政権」と揶揄する向きもあるように、経産省主導の政策が多かったことは事実でした。鈴木氏は、「かつては農家が自民党の票田だったが、農家が減ったことで票田の価値が下がってしまったことなどが積み重なって、農政全体に『ゆがみ』が生じてしまった」と指摘します。調べてみると我が国の戦後の農業政策についても意外な事実があることがわかりました。その概要を紹介しておきましょう。

▼我が国の自給率低下と農業離れの要因

 

私たちは一般に「日本は島国で国土が狭いために農地面積も限られている。よって、食料の自給率は低くて当然である」という考えを持っていますが、長い歴史を振り返ると、我が国は、(現在より人口が少なかったとは事実ですが)、伝統的に食料自給率100%を維持してきました。

だからこそ、江戸時代は鎖国政策を採用できましたし、外国から資源の輸出入ができないような情勢下にあっても、様々な工夫で再生可能な植物資源を活用する独自の「循環型社会」を築き上げてきたという歴史があります。

戦後の歴史を紐解くと、意外にも我が国の食料自給率が下がった原因は、「貿易の自由化」と「食生活改善政策」にあったことがわかります。もっと具体的にいえば、自動車などの関税撤廃を勝ち取るために農産物の関税引き下げと輸入枠の拡大を認めたのでした。そこに、アメリカやヨーロッパが自国の農家に補助金をジャブジャブ出してダンピングを仕掛けてきたため、日本の農家は壊滅的打撃を受けてしまったのです。

特にアメリカは、当時、小麦の生産過剰が問題になっていましたので、日本人の食生活を無理やり変えさせてまで、我が国をアメリカの農産物、特に“小麦の一大消費地”に仕立て上げようとしました。

様々な宣伝・情報工作の中で、当時、影響が大きかったのが1958年に出版された『頭脳―才能を引き出す処方箋』(慶応大学名誉教授・林たかし著)でした。本書には「米食国民は一歩遅れる」として「米を食うとバカになる」「日本人が欧米人に劣っているのは、主食の米が原因である」などの主張が掲載されていました。本書はまた、発売3年で50刷を超える大ベストセラーになり、その影響は計り知れないものがありました(ちなみに、本書は現在、アマゾンの中古本として、最低価格が4758円、中には1万円を超える価格で売られているものもあります)。

当然ながら、この主張は科学的根拠が全くない「暴論」のようですが、慶大学名誉教授の肩書も手助けし、当時は“正しい学説”としてまかり通りました。これが「洋食推進運動」に発展して、「日本人の食生活近代化」のスローガンのもと、和食を「排斥」する運動まで拡大しました。この結果、本来、洋食に反対するはずの農家の人々まで洗脳され、欧米型食生活を崇拝するようになりますが、「これほど短期間で伝統的な食文化を捨てた民族は世界史上もほとんど例がない」と鈴木氏は指摘します。

この背景には、「日本農業を米国農業と競争不能にして余剰農産物を買わせる」というアメリカの「したたかな食料戦略」があったことは疑いなく、1973年、当時のバッツ農務長官が「日本を脅迫するのなら、食料輸出を止めればよい」と豪語したとの記録も残っています。

終戦後の占領時代の初期、「日本が二度と武器を持って米国に立ち向かうことができない国にする」とのトルーマン大統領の「降伏後における米国の初期の対日方針」が発出され、マッカーサーの占領政策の方針になります。1970年代と言えば、日本がオイルショックから一早く立ち直り、ホンダやトヨタがアメリカ進出を果たした頃でしたが、その報復というべきか、1970代あたりでも、トルーマン大統領の「対日方針」がくすぶったままとはいえ、まだ生きていたのでした。冒頭の「タイム」記事を読むと今でも一部に残っていると感じざるを得ません。

▼その結果が「減反政策」や「酪農」を危機に

伝統的に、米を主食としてきた日本人にとって米の安定供給は大きな課題でした。特に、戦後の“食糧難”を経験した日本は、「米の生産量引き上げが国全体の問題である」といっても過言でない時代がありました。

そして、この問題を解決するため、戦後まもなく過ぎた頃、肥料や農業用機械の導入が進むなど技術革新が起こり、米の生産量を大きく引き上げることに成功し、米が名実ともに家庭の主食になりました。

個人的な体験で言えば、小学校の低学年の頃まで、近所の農家はみな、農作用の馬を飼育していました。兄が耕運機を購入して我が家から馬がいなくなったのは小学校4年生の頃、つまり昭和36年だったと記憶しています。その後の農作業の風景が様変わりし、我が家も近くの畑や牧草地などを改良して田んぼの面積を大幅に拡大するとともに、兄は、精米に加工するためのライスプラントを建設し、近所の米の精米を支援していました。

そのような折、前述の「洋食推進運動」が広がり、「主食=米」の常識が徐々に崩れ出し、日本人の食卓の欧米化が進行し、「米離れ」が加速しました。

この結果、米が生産過剰になり、生産量を調整するために、政府は「減反政策」を導入しました(昭和44〔1969〕年に試験的に開始、1971年本格導入)。これに対して、農家は当初は激しく反発しますが、政府は、米農家の転作を支援するために補助金を支払うことで農家を納得させ、事後「減反政策」は約50年間続けられ、平成28(2018)年、ようやく終わりを迎えます。

2018年に終了した理由は、高く販売できるブランド米を耕作する農家が増えて、業務用の米が不足するようになったのが原因の一つと言われています。

食料増産を目的として米生産は、終戦時の900万トンから20年後の1967年に1400万トン超まで拡大しますが、「減反政策」以降の50年間で半減し、最近は700万トンを切ってしまいました。つまり、餓死者が出た終戦時より人口が1.7倍に増えているのに、米生産は当時よりも少なくなってしまったのです。

1960年以降、中国もアメリカもインドも、米の生産を3倍以上に増やしていますし、世界全体では3.5倍に増加している中で、日本のように、米が主食にもかかわらず、米の生産を減少させている国は極めて稀でした。

▼“米離れ”が招いたもの

 

2011年の総務省「家計調査」の結果、日本の一般家庭におけるパンの消費額が米を上回ったと話題になりました。1世帯(2人以上世帯、農林漁家世帯除く)あたりの米に対する年間支出額2万7428円に対し、パンは2万8318円と逆転したのでした。これは昭和21年(1948年)に始まる「家計調査」史上、初めてのことだったようです。

現に、我が国の小麦の2016~20年(5年間)の平均流通量は、国産82万トン(14%)のみで、488万トン(86%)が輸入、その内訳は、アメリカ(49.8%)、カナダ(33.4%)、オーストラリア(16.8%)で、この3カ国でほとんどを占めています。

ここでとても興味深い事実に気がつき、私自身は唖然としました。ほとんどのパンやめん類には「小麦粉(国内製造)」と書いてあります。実は、外国産小麦を“国内で製粉した小麦粉”だからこのような表記になっているのだそうです。

小麦の需給と価格の安定を図るために、政府が外国産小麦の輸入と売り渡しを行なっており製粉会社は国が決めた“売り渡し価格”で小麦を購入して小麦製品を作っています。小麦や小麦加工品(小麦粉など)を輸入すると最大で1kgあたり158円の関税がかかりますが、国が輸入する小麦には関税はかかりません。

小麦粉は食品スーパーなどで、1kg100円ほどで特売されていることもありますが、わざわざ高い関税を払って小麦や小麦粉を輸入する人はいないので、外国産小麦から製造された小麦粉は“国内製造”なのだそうです。

 

さて、米農家が「減反政策」で向かった先は様々でした。その1つとして、「酪農」について取り上げておきましょう。

我が国が「酪農」に力を入れたのは、我が国がGATT(関税及び貿易に関する一般協定)に加盟した1955年以降でした。つまり、貿易・資本の自由化が進められて、日本経済の開放体制のなかで、日本農業の零細性の克服や生産性向上が求められたことが始まりでした。

それを受けて、1961年、政府は「農業基本法」を制定し、新しい農業と農業政策の方向を示し ましたが、 経済成長に伴う所得上昇によって牛乳・ 乳製品の消費量増大が予想されたため,「酪農」は「農業基本法」の“選択的拡大”部門として位置づけられました。

そして、酪農支援策(低利融資、補助金、技術普及等)の結果、1960年代から70年代、「減反政策」で米作を諦めた農家が酪農に転向したこともあって、酪農農家は飛躍的に増加します。しかし、その形態は、大半が水田の裏作や転作で飼料作物を生産する 「水田酪農」と呼称される稲作と酪農の複合経営に留まったという一面もありました。

一方、日本の酪農は、国内の飼料基盤が不十分 なまま輸入飼料に依存して急速に発達した ところに大きな特徴があり、1970年には49.3%であった飼料自給率は低下の一途をたどり、2007年には32.8%まで低下します。

時を同じくして、人口増加に伴い、乳製品の消費量も増加しますが、折からの乳製品 の輸入自由化、関税率低下、円高もあって乳製品の輸入量も増加します。事実、牛 乳・乳製品の自給率は,1960年では89%であ ったものが90年には78%に低下し,2007年には66%まで低下します。また、飲用乳の消費量も1994年をピー クに減少に転じます。その後も、継続的な減少局面に転じ、現在に至っています。

これらを背景に、酪農農家、特に経営規模が小規模の「水田酪農」は減少に転じ、1970年代に、30.7万戸もあった酪農家は2022には1万3300戸にまで減少してしまいます。こうして、酪農と水田農業の結びつきが弱まった とはいうものの、酪農家の5 割が米を生産しているといわれます。

残った酪農家も最近はコロナ禍やウクライナ戦争の影響で生産資材価格が上昇し、特に200頭以上の牛を飼育する大規模経営が赤字に陥っており、このままでは赤字がさらに膨らみ、連鎖的に酪農家が倒産する可能性もあるといわれ、現に北海道ではかなりのハイペースで倒産が相次いでいるようです。

コロナ禍などの理由以外に、北海道の酪農家は、輸入している脱脂粉乳を国産に置き換えるための差額として乳代1キログラムあたり2円以上の負担金が課せられているようで、酪農家に重くのしかかっているのが実態です。

政府が主導した「畜産クラスター事業」(畜産の収益向上のために、畜産農家を核として地域の関係事業者が連携・結集していく体制をいい、これによって、補助金として機械や設備導入時に本体価格の2分の1の国庫補助を受けられる)の結果、全国的に牛乳余りが生じ、酪農家は経営危機に直面している一方で、海外からの乳製品輸入は据え置き、酪農家には「乳製品が過剰だから、生乳をしぼるな、牛を処分しろ」という矛盾しているではないかと疑問も沸き上がり、「人災としての危機」と批判されています。

子牛も値下がりし、生後1カ月の雄子牛がだいたい1万円ほどでコロナ前の10分の1に下がっているようです。餌代にもならない価格に、一斉に酪農家がいなくなるとの危機感も叫ばれています。

ふたたび、個人的な経験ですが、「減反政策」で米の生産を諦めた兄は、「水田酪農」に転じますが、今度は「乳余りのあおり」を受けて、多額の借金を抱えたまま酪農を諦め、その後、和牛の飼育に転じます。その和牛飼育も12年前の福島原発事故の影響で再びあきらめざるを得なくなりました。多額な借金を息子の代(私の甥)になって完全返済したのはようやく昨年でした。

第2編でも紹介しましたが、「政治家と農林省の官僚(の愚策)によって、50年前に農業を奪われた」と今なお、事あるごとに口癖のように語る兄ですが、実際にこのような被害を受けたのは決して我が家のみではなさそうです。次回、「日本の農業は過保護なのか」について、諸外国と比較して“見える化”してみましょう。意外な事実に気がつくことでしょう。(つづく)

宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学校卒業後、陸上自衛隊入隊。1978年、米国コロラド大学航空宇宙工学修士課程卒。陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕僚副長、第1高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、第6師団長、陸上幕僚副長、東北方面総監等を経て2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。日本製鋼所顧問を経て、現在、至誠館大学非常勤講師、パソナグループ緊急雇用創出総本部顧問、セーフティネット新規事業開発顧問、ヨコレイ非常勤監査役、公益社団法人自衛隊家族会理事、退職自衛官の再就職を応援する会世話人。著書『世界の動きとつなげて学ぶ日本国防史』(並木書房)

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著者

宗像久男

1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学校卒業後、陸上自衛隊入隊。1978年、米国コロラド大学航空宇宙工学修士課程卒。陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕僚副長、第1高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、第6師団長、陸上幕僚副長、東北方面総監等を経て2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。日本製鋼所顧問を経て、現在、至誠館大学非常勤講師、パソナグループ緊急雇用創出総本部顧問、セーフティネット新規事業開発顧問、ヨコレイ非常勤監査役、公益社団法人自衛隊家族会理事、退職自衛官の再就職を応援する会世話人。著書『世界の動きとつなげて学ぶ日本国防史』(並木書房)